ご意見・ご質問をお待ちしております異色の陶芸家・野火重本(1943〜1998)
白萩釉灰被茶碗 笑窪
作品 1白萩釉灰被茶碗 夕焼 2鬼萩白釉流大破花入 天山 3萩井戸茶碗左馬 流雲 4灰被花入 5壷
焼物はその名の通り、いかに土を焼くかで総てが決まります。 土味を生かし陶器だけが持っている温かさは、登窯の中から生まれてきます。 赤松の薪で何十時間も焚き続けられ、炎と、燃え尽きた薪の灰が、 時に窯変、時に灰被りと様々な変化を見せてくれます。 四百年の昔から、人々に愛されてきた萩焼の伝統を踏まえた、 野火流萩焼を、ご高覧いただきますよう、ご案内申し上げます。 野火重本 (作陶展あいさつから)
野火窯の由来
16世紀末、豊臣秀吉は朝鮮に出兵させた。 文禄、慶長の役である。 当時日本は、織田信長の影響を受け継ぎ、武将たちの間で 茶の湯が大流行であった。 千利休が活躍したのも、この時代である。 豊臣秀吉の命を受け、朝鮮に出兵した毛利輝元も、 茶の湯を好んだ武将の一人であった。 戦国末期、戦に明け暮れた武将たちは、 一服の茶に、何を求めたのだろうか。 明日は戦場、敵を攻め落とし、一番手柄は自分のものか。 それとも武運拙く己の命を落とすやも知れぬと、 逸る心を一服の茶に静めたのだろうか。 武将たちの心を想うと、一服の茶は、 己と対峙する唯一の時だったのかも知れない。 そして、武将たちは、優れた茶器を求めあった。 現在に伝わる名物茶器の中には、 この時代に格付けされたものが多くある。 朝鮮から帰国した毛利輝元は、二人の陶工を連れていた。 李勺光、李敬の二人である。 自分の好みの茶器を焼かせるためか、萩の城下町に築窯させた。 これが萩焼の始まりと言われている。 優れた茶器を手に入れるために、陶工を手に入れた 毛利輝元とはなんと愉快な武将だったのだろうか。 遥か四百年の、昔のことである。 私は、原田隆峰師に師事、二年の修業を重ねた後、 平成2年8月、花河原の山中に開窯しました。 野火窯の由来など、何もありません。 しかし、開窯した確かな理由はひとつだけ、 遥か昔の、戦国の武将たちが満足するような茶器をひとつ、 この世に残して死のうと決心したほか、ありません。 花河原の山中には、自然が一杯あって、時にそれが 辛くなるほど迫ってきます。 春には草花の息吹が聞こえてきます。夏には岩魚の泳ぐ姿を眺め、 秋には嵐の様に鳴く虫の声を、身体一杯に楽しんでいます。 そして冬、凍てついた夜空を星が埋め尽くし、流れ星が走ります。 そんな山中で、野火流萩焼の追及に没頭しています。萩焼窯元 野火窯 野火重本
野火重本(のび・しげもと)経歴
ポートレート 昭和18年9月 山口市生まれ 昭和44年1月 独学にて報道写真を学んだ後同年5月写真家として独立 5月 南ベトナム取材、4カ月間激戦地を取材する 10月 写真展「南ベトナム 彼らは今日も生きている」於銀座三菱ギャラリー 昭和44年4月 月刊誌文芸春秋「南ベトナムの子供たち」発表 昭和45年5月 渡米 ニューヨークにてスタジオアシスタントとして働く 昭和50年4月 五番街20丁目にノビ&ワグナーススタジオを開く 昭和53年1月 ハワイ ホノルルに転居 昭和55年5月 帰国 写真展「キラウエアハワイ」於銀座ナガセフォトサロン 6月 月刊誌写楽「酒と女が好きなあいつ」発表 昭和56年7月 週刊誌アサヒグラフ「ニューヨークアナーキー」連載(15回) 昭和57年6月 日本写真協会新人賞受賞 昭和58年7月 写真集「ニューヨークアナキー」(朝日新聞社)出版 昭和59年6月 株式会社フリー映像プロダクション設立 8月 テレビ朝日「ニュースステーション」からデトロイト取材 「デビルズナイト」放映。以後昭和62年5月まで「マイアミ麻薬戦争」 「シカゴ警察24時」「ミシガン州立刑務所」など同番組より放映 昭和62年10月 萩焼作家 原田隆峰に師事 平成2年10月 野火窯開窯 平成4年9月 作陶展「萩焼 野火重本作陶展」於東京新宿三越百貨店 以降、毎年開催。 平成10年12月 逝去
Last updated, January 15, 1999
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